仙北町散歩


仙北町散歩

仙北町の歴史

仙北町散歩マップ

仙北町は、南部家第二十七代藩主 南部利直公(1576~1632)が出羽仙北郡(現秋田県仙北郡)からの来住者を居住させたのに始まります。城下町の中心部から川を挟んで独立している仙北町は、奥州街道や山形街道の出入り口の要所として、また北上川の舟運(しゅううん)による物資の交流の中心として活況を呈していたと言われています。

天明8年(1788)の記録によると、盛岡城下の人口135,578人のうち仙北町は1,048人となっています。この頃は、紫波、太田、向中野、見前を背景として米屋が多く、盛岡城下に供給する卸屋があり城下の米屋の20%が仙北町にありました。また、造り酒屋や藁物屋(わらじ・縄等の販売)も多くあり、その他にもいろいろなお店が軒を並べていました。

文化9年(1812)武士の街を小路、庶民の街を丁と分けたため仙北町が仙北丁となり、仙北丁から独立して新小路に青物丁の名前がつけられました。仙北町には血気盛んな人が多かったようですが、庶民の街として賑やかで親しまれたところだと言われています。歴史ある仙北町も旧4号線の拡幅工事や盛岡市の都市計画道路の市街地環状道路が東西に通じ、街の景観が急激に変わっています。

仙北町駅

仙北町駅
開業は1915年(大正4)1月5日。
盛岡駅の最初の設置計画では、この駅の周辺を予定していましたが、周辺住民の反対で現在の場所になったといわれています。やがて駅設置の要望の声が高まりましたが、当時は盛岡駅の次が矢巾駅。盛岡駅からわずか1.8㎞の距離に新駅は難しかったようです。そこで生家の最寄り駅ということで、当時内務大臣兼鉄道院総裁だった原敬の職権によって作られたと言われています。

駒形神社

駒形神社
南部藩の祖、南部光行公が建久2年(1191)に三戸に御駒堂を祀りました。南部氏が三戸から盛岡に来た時に一緒に移されました。馬櫪の神(馬の守護神)を祭っていましたが、明治の神仏分離により駒形神社となり祭神を保食神(うけもちのかみ)としました。

高屋稲荷神社

高屋稲荷神社
宝永5年(1708) 南部家第三十二代南部利幹公の時代に仙北町、川原町を結ぶ新山舟橋、旧明治橋に通じる沿道に五穀豊穣、城下の往来者等の旅路、舟路の安全の神として伏見稲荷より勧請したといわれています。江戸時代は、北上川舟運(しゅううん)の水主の信仰が厚く手洗い石等が奉納されました。明治の廃仏毀釈の時に大宮神社に移されましたが、地元の人々の信仰が厚く再び現在の地に戻され祀られました。

らかん公園の石仏の試作

らかん公園の石仏の試作
宝茶畑のらかん公園にある石仏の試作が長松寺の墓地にあります。長松寺の本寺祇陀寺14世天然和尚が南部藩内の飢饉による餓死者供養のため、十六羅漢の建立を念願しましたが、年老いたため長松寺の13世泰恩和尚に念願を伝えました。泰恩和尚は青森から仙台まで13年をかけ歩き協力を呼びかけ資金を得ました。この事業を心配した徳清家3代佐藤半六が先ず試作しようと資金を出し釈迦如来一体を作らせました。この石仏が長松寺の墓地にあります。

長松寺

長松寺
長松寺の創建年代は不明です。開山当初は慈覚大師の作と伝えられる阿弥陀如来を本尊として浄土宗のお寺でしたが、江戸時代の始め曹洞宗に改めました。現在の場所に移ったのは大正13年(1924)です。檀家総代の徳清家が資金や土地を寄進して本堂の移転・改築が完成しました。盛岡三十三観音の十二番として千手観世音が安置されています。

火防の秋葉さん(長松寺境内)

火防の秋葉さん(長松寺境内)
寛政年間(1789~1800)に仙北町を火災から守るために長松寺の立鶴和尚が火防鎮守で知られた遠州(静岡県)秋葉神社の秋葉三尺大権現の分体を勧請しました。幕末期に、北上川の近くから出火したところ、本堂の棟上に奇人が現れ火の粉をうちわで扇ぎ返したところ火はすぐに消えたといわれました。この奇人が秋葉三尺大権現が現れ火を消したという噂が流れたとのことです。今は、長松寺境内の鎮守堂に安置されています。

不退院千日堂

不退院千日堂
地域の人には、「虚空蔵さん」と呼ばれていますが、本尊を阿弥陀如とした浄土宗のお寺です。不退院のおこりは、元禄7年(1694)、円光寺の良観和尚が凶作による餓死者供養のための草庵を建立したのに始まります。「虚空蔵さん」と呼ばれるようになったのは、文化年間(1804~1817)に農夫が草刈り中に見つけた虚空蔵菩薩を不退院に奉安したところ、参詣者が多く「虚空蔵さん」の名で盛岡城下に名が知られるようになったということです。盛岡三十三観音の十三番として聖観世音が安置されています。

北十左衛門の石塔

北十左衛門の石塔
悲運の武将 北十左衛門の石塔。北十左衛門は、鹿角の金山奉行として盛岡藩初期の豊かな財政作りに大いに貢献しました。慶長19年(1614)、十左衛門は藩内から姿を消し大阪冬の陣籠城の際、豊臣方の武将として現れます。「南部十左衛門」と名乗ったため徳川方に味方していた盛岡藩二代藩主南部利直は将軍秀忠から詰問されます。豊臣方の滅亡後、伊勢に逃げますが捕らえられ、利直によって新山川原で処刑されました。十左衛門の大阪籠城は、じつは南部藩の存続を図る利直の密命を受けて、豊臣方に入ったものとの説があります。

小鷹刑場跡・供養碑

小鷹刑場跡・供養碑
仙北組町から南に行った小鷹橋の近くに藩政時代の刑場跡があります。特に重罪の人の処刑は、穀町にあった御会所場(今の刑務所)から城下23町を引き回しこの刑場で磔(はりつけ)・獄門にされました。
今では、刑場跡から道路を挟んだ所に供養碑が立っています。この供養碑は、天保3年(1832)北山法華寺の第18世観明院日誠上人が建立しました。

「舟ッこ流し」

「舟ッこ流し」
「舟ッこ流し」は、享保(1716~1735)の始め頃、三十代藩主行信の六女光源院殿が黄檗宗に帰依し、大慈寺の僧に希望し、国家安泰、五穀豊穣を祈念して川施餓鬼を行ったのが始まりとされています。また、文化12年(1815)に津志田の茶屋に小時という女性がいて、お盆に町見物に来て、雨が降り続き北上川の増水で帰れなくなってしまいました。川原丁の船宿に泊まっていましたが帰りたい気持ちが強く、他の十数人と船頭に頼んで舟を出したが激流を受けて舟は濁流に飲まれてしまったのです。その時の犠牲者の幽霊が津志田や北上川筋に出るという話が伝わり、翌年この霊を慰めるために施餓鬼舟を流したのが始まりともいわれています。

盛岡市保存指定建造物

徳清(徳清倉庫 本社)

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北上川の明治橋際の仙北町角に建つ瓦葺きの屋敷です。当主の話によると明治6年盛岡城の勘定奉行所等の建物の払い下げを受け、明治20年に店舗兼住宅として現在地に再建されました。明治17年の下の橋の大火の経験から防火に意を用い土蔵をつくり,米を貯蔵したとのことです。

浜藤私邸

平成19年当時

現在の浜藤私邸跡地

仙北町通りに玄関をもつ江戸時代の町家型式の建物。改造等があり昔の面影はなく、昔本陣として武家屋敷の様相を呈していたと伝えられていました。残念ながら平成19年末に建物は全て取り壊されました。現在は、道路が拡幅され、跡地にはマンションや住宅が建てられ、昔の面影を見ることはできなくなりました。